国の直轄植民地の色彩が濃く公民権は弱かったが、鉄道・道路等の社会基盤整備が急速に進み、定住人口も急速に増えていった時代である。
現行の振興局体制の礎となった14支庁体制も、明治30年の郡役所昇格の形をとった19支庁設置に始まり、何度かの再編・統廃合を経て、明治43年には現在とほぼ同じ管轄区域・統治体制になる。
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当時、足寄郡足寄村(現在の足寄町螺湾付近)は釧路支庁所轄だった。
現在の雨竜郡幌加内町は、この時点では空知支庁所轄。現在の天塩郡幌延町は、この時点では留萌支庁所轄。
これらは、開拓途上の北海道・樺太(現サハリン)に適用された地方自治制度。
北海道各地の歴史を理解する上で、避けて通れない用語である。また、理解することで、より深みのある理解を得ることも可能であろう。
郡役所は、北海道で言えば現在の支庁に相当する。
複数の戸長役場の上位官庁で、当時は開拓使や道庁の行政出先機関の位置付けだったようだ。
戸長役場は、現在の役場、というか、役場の出張所に相当する。
現在の役場のように議会や自治機能は無く、文字通り、明治憲法下での家制度に基づく戸籍管理や納税取次ぎの行政サービスの実際の窓口である。
村といっても人口10人という村もザラだったので、ひとつの戸長役場が複数の村を管轄していることも珍しくなかった。
明治11年7月、郡区町村編成法が明治政府の勅令で公布されたが、この時点では北海道に適用されなかった。
北海道にこれが適用されたのは翌年の明治12年7月。
従来の郡の区割の基にに合計 826 の町村を定める。この時にようやく札幌と函館に「区」が設置されたが、議会が無いばかりか、選挙で議員などを公選するということが出来ないなど、「体裁だけの自治体」といえる。
明治21年に「町村制」が公布されるが、北海道は適用されなかった。
事実上、道庁の専制体制下であったようだ。
このことは、例えば、緊急の公共事業をやるにしても、道庁が「駄目だ」と言えば覆ることはなく、泣き寝入りするしかないことを意味する。
この状況は、行政と社会実態の剥離を顕著にしていくが、各種の運動で、明治30年に一定の成果を見ることになる。
明治30年11月に、国の直轄で出先機関として19支庁設置(後に14支庁に再編)、勅令で、北海道区制・一級町村・二級町村が公布される。
札幌・函館・小樽に明治32年10月1日に施行される。
本州の市制に相当するものであるが、参事会の設置・助役の設置などが認められず、通常の市制に比べると自治の権限は弱いと言われている。
これは、現在の政令指定都市の区制とは概念が異なる。
17町村に明治33年7月1日に施行される。
本州の町村制を念頭に置いたものであるようだが、実際は自治権が弱かったようだ。
何をするにも、実際の本州の町村制にはほど遠い制度だった。
昭和18年3月に、一級町村制、二級町村制が廃止された時点で、本州と同様の自治制度が確立した。
62町村に明治35年4月1日に施行される。
二級町村制は、北海道にしかないもので、住民の公民権がなく、町村会(町議会/村議会)の権限が低く設定されており、支庁や道庁などの上級官庁の規制や強制が直接働くような制度だったようである。
昭和18年3月に、一級町村制・二級町村制が廃止された時点で「指定町村」と名前を変え、従来の二級町村制の制度が概ねそのまま引き継がれたが、昭和21年10月で、この制度も廃止され、やっと本州と同様の自治制度が確立した。
6区(札幌・函館・小樽・旭川・室蘭・釧路)に大正11年8月1日に施行される。
これは本州と同様の自治権を行使できる自治体。
このときに市制施行した都市は、現在でも地域の拠点となる主要都市である。
市制施行の2年前(大正9年)に日本初の国勢調査が行われるが、このときの人口(10月1日現在)は以下のとおり:
札幌:102,580 函館:144,749 小樽:108,113 旭川:54,391 室蘭:56,082 釧路:39,392